開発日誌第3回  チェックメイト

どうもごぶさたしてます。管理人です。
たんていくんvol.2の企画に熱中してしまい、気が付いたら年が明けてました。(笑)おめでとうございます。(おい…)

さて、去年の暮れに、ほぼ同内容のメールでの質問をいくつかお受けしました。個々に回答したのですが、どうも多くの方が感じておられる疑問のように見受けられましたので、ちょっと長くなりますが、今回ここでお話ししようと思います。



問題となっているのは、プレイヤーが最終的に犯人を特定する、つまり王手をかける部分に関する物です。

たんていくんvol.1では、これは単純に「対決する」コマンドを使うだけです。後は何もする必要がありません。その容疑者がなぜ真犯人なのか、事件の真相はどうなっているのか…等の要素を、ゲームは一切訊ねて来ません。ですからプレイヤーも、それを客観的に証明する必要がありません。
QEDしなくて、どうして推理ゲームと言えるのか?という事ですね。この疑問は尤もです。さらに、何人かの方は「有名メーカーから出ている法廷ゲームのように、容疑者を論理的に追い詰めて行く面を設ける予定はないのか」とも問われました。

一般論としては、こういった話はよく解ります。しかし、これらの質問は、あくまで「たんていくんも普通の推理ゲームと同じ構造なんだろうから…」というのが前提になっています。良いか悪いかは別として、たんていくんは従来の推理ゲームとは大きく違うのです。違うからこそ、どうしても作りたいと思っているのです。

このサイトのあちこちで述べているように、私達迷宮倶楽部は、推理と計算は全く違う性質の物だと考えています。辞書を引けば何と解説されているか解りませんが、私達は、「本来計算出来ない物を暴力的に演算し、的中させる手法」を推理と呼んでいます。

ここで、特に重要なのは以下のようなポイントです。

1.十分な判断材料が揃っているかどうかは全く問題ではない。

2.常に的中するという保証はない。

3.結果は的中かハズレか。100点か0点か。それ以外の評価はない。

4.模範的手法が確立されていない。そのため個人差が極めて大きい。

だからこそ、推理は周囲の人々に大きな驚きを与える事が出来ます。いくら豊富な教養があろうが、どんなに頭が良かろうが、推理は出来ません。確かに学問の世界にも「推理」という括りは存在しますが、それは結局は計算の亜流であり、私達ミステリファンが欲する「それまで誰も気付かなかった事件の真相を看破する」ような意味での推理ではありません。

能力うんぬん以前の問題として、推理は方法論だと言えます。やり方を知っているか知らないかの違いなのです。計算の延長線上にしか推理を定義出来ない人は、何度やっても的中率を上げる事は出来ません。また、推理の対象となる事柄の幅もごく狭くなります。そして何より、周りの誰も感心してくれません。計算すればすむからです。

管理人なりの「推理論」(何だそれ…)は、もし皆さんからリクエストがあれば、機会を作りお話ししたいと思います。ここで自発的に述べても、恐らく大半の人は退屈でしょうから。

話を戻しますが、先に挙げた4点のうち、最初の1に着目して下さい。皆さんどう思われますか?実は、これが推理の「核心」です。本当に十分な判断材料が全て揃っていれば、何も推理を行う必要はありません。一方で、一つもデータがない所から思考しても、それは「想像」にしかなりません。2・3・4を踏まえた上で、最低で何があればいいのか、それはどこにあるのか、どうすれば入手出来るのか…これが推理の出発点です。これを判断するには経験が必要ですが、経験だけではダメです。知識が必要ですが、やはり知識だけでも無理です。この他、いかなる能力をもってしても、それだけでは歯が立ちません。

本来、誰かが十分な判断材料を揃えてくれたなら、その判断は推理ではない訳です。限りなく数学的な計算に近い物になると思います。
ですから、4で述べたように、推理は第一歩で既に大きな差が生じる事になります。逆に言えば、この第一歩で周りの人々に差を付ける事が、推理の一番の面白さだと思います。たんていくんで言えば、やみくもに動き回るのではなく、最初にどこに行き、誰に会うべきか…それを考える事が、推理の大きな喜びの一つだと思います。そして有力な情報が一つ、二つと集まって行くごとに、真相に迫る知的興味は湧きますが、反対に推理の面白さは半減して行きます。徐々に計算に近くなってしまうからです。こうなると個人差も何も、誰が考えても同じ結論になってしまいます。現実の事象を看破するにはいいでしょうが、「(ライバルやプログラムやゲーム作者と)競い合う面白さ」は薄れてしまいます。誰もが推理不能だと思うような序盤で「犯人はこいつだ!」と的中させる事こそが、推理の醍醐味ではないでしょうか。まだまだ上手く出来たとは思いませんが、私達はこのような「本当の推理の面白さ」を、ゲームで表現したいと思っているのです。


ずいぶん話が遠回りになってしまいました。
たんていくんがプレイヤーに対し、客観的な証明を求めないのは…

1.推理である以上、100パーセント正しい解答はありえない。もしあれば、それは推理による判断とは言えない。迷宮倶楽部は、推理は本来、他人に対し「解説」は出来ても「証明」は出来ない物だと考えている。

2.模範的手法がない以上、推理には一人一人違ったやり方がある。これが正しいと万人が認める手法はない。作者が用意したのとは全く異なる論理によって真相を特定するプレイヤーもいるだろう。そして私達は、それらの人々に心から敬服する。「作者によって準備された模範解答」と合致しないからといって、真相を的中させた優秀な人々を認めないのは間違っている。

…の二つの理由からです。同様に、「論理的に容疑者を追い詰める」事を描いたりもしません。それは個々のプレイヤーが、自分の頭脳の中で自由に行うべき事だと思うからです。プログラムの側で、変に制約を設けたくはありません。
平均的なミステリファンと比べ、私達は推理という物に対し、よりストイックな考えを持っているようです。だから、こんなアホなゲームを大真面目に作っているのです。それが正しいのかどうかは解りませんが。ほな。


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